≪シルクミュージアム 夏の特別展≫ 天下の糸平と呼ばれた男 田中平八
『天下糸平』と呼ばれていた偉人、田中平八は、信濃国伊那郡赤須村(現在の駒ヶ根市)にて藤島卯兵衛の三男として誕生(幼名釜吉)し、幕末から明治期にかけて一代にして財をなし、横浜の豪商と数えられた立志伝中の人物。
田中平八の伝記(評伝)の書籍は数多く、明治時代にはその伝記が何種類もの小学校の教科書に載り、講談・小説にまで登場しました。駒ヶ根が生んだ傑物のひとりです。魚類雑貨商(飯田の萬屋)での丁稚奉公、染め物業藍屋(飯田の丸宏)での手伝いなどを経て、藍屋「丸宏」の田中保兵衛の婿養子になり、田中平八に改名。
横浜で生糸売込商(屋号:糸屋)を営み、貿易・金融で巨万の富を得て、財界で活躍し、公益事業も行いました。横浜を代表する大商人の一人となり、新橋(東京)-横浜間を陸蒸気が走る日本初の鉄道開通時には明治天皇陛下の御前で祝辞を献上する栄に浴しました。
田中平八は、横浜の洋銀取引所が香港上海銀行の番頭フィードンに乗っとられるのを防ぎ、今村清之助(出身は現在の高森町)とともに渋沢栄一に協力し、東京株式取引所を設立しました。
「近代日本経済の父」と称される渋沢栄一は、回顧録の中で、明治維新当時の財界における三傑のひとりとして田中平八を挙げ、『無学でありながら、これほど非凡の才能を備えた人を見たことが無い』と評しています。
「天下之糸平 伯爵伊藤博文書」と書かれた内閣総理大臣・伊藤博文公の揮毫による「平八の顕彰碑(高さ5.45m、幅3.6mの堂々たる緑泥花崗岩碑)」が、木母寺(東京都墨田区)の庭園内に建っています。糸平は、「糸屋の平八」を縮めた愛称です。都内にある伊藤公が揮毫した碑の中で最も大きな碑です。
糸平の活躍の舞台が横浜・東京であったので、郷土駒ヶ根では糸平の偉業に気付かない人も多く、郷土の隠れた偉人となっています。